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桐朋学園 音楽部門 トップ > 桐朋学園音楽部門について > 桐朋学園 音楽部門の歴史
桐朋学園音楽部門は、1952年、当時の桐朋学園女子部門の桐朋女子高等学校に音楽科を併設したときから、桐朋学園の音楽教育の歴史を刻むようになりました。
学校法人桐朋学園は現在、男子部門、女子部門、音楽部門の3つの学校群から成る学校法人です。軍人・軍属の子女の教育を目的に山下亀三郎氏が資金を投じて設立した山水中学校と山水高等女学校をその母体としています。戦後、山水中学校は桐朋学園男子部門として、山水高等女学校は桐朋学園女子部門として、それぞれ新しいスタートを切りました。そこに、新たな音楽教育を理念として生まれたのが桐朋学園音楽部門です。
戦後の日本は、焦土と化した荒廃の中から、高邁な人間の理想と希望と健全な社会を目指して新たな歩みを始めました。桐朋学園音楽部門の音楽教育もまた、そうした戦後の息吹を受けてスタートしました。
そもそも桐朋学園音楽部門は、1948年に市ヶ谷に開設された「子供のための音楽教室」を礎とします。音楽教室の創始者たちは、子供たちの限りない才能を大切にし、それを育み、未来を創り出すことに努めてきました。桐朋学園音楽部門の原点は子供の教育にあります。
子供の中にある無限の可能性を引き出すことにこそ、教育の未来があるという思想から音楽部門の教育は始まりました。
この音楽教室を土台として、1952年に学校法人桐朋学園の中に桐朋女子高等学校音楽科が開設され、その後、桐朋学園短期大学(1955年)、4年制の桐朋学園大学(1961年)と発展し、1995年に富山市の誘致を受けて桐朋オーケストラ・アカデミー、1999年に我が国初の芸術系の独立大学院である桐朋学園大学院大学を同じく富山市に開学しました。その間、桐朋学園大学の多様な教育の場として各種のディプロマ・コースも開設し、今日、学校法人桐朋学園の一翼を担っています。
終戦の年の秋、チェロ奏者で指揮者の斎藤秀雄と指揮者の渡邉暁雄はオーケストラ教室を始めました。彼らの教育思想に共鳴して、鈴木乃婦子、ピアニストで斎藤とは室内楽を行っていた井口基成、声楽家の伊藤武雄、音楽評論家の吉田秀和、作曲家の柴田南雄らによって、1948年に「子供のための音楽教室」が開設されました。
1948年~1951年度 詳細はこちら
東京家政学院校舎外観(1948年頃)
1952年、桐朋女子高等学校音楽科の最初の入学式が行われました。発足当初から、その開かれた教育と、主導的教員の教育理想に共感して多彩な教員がつどい、教育現場を形成していました。西洋音楽を専門的に教育し、将来、広く外国での活躍が期待されることから、高等学校のカリキュラムとして英独仏3カ国語の授業が展開され、2カ国語を履修することがほぼ義務づけられていました。
1952年~1954年度 詳細はこちら
桐朋女子高等学校音楽科入学式(1952年4月8日)
1955年~1960年度 詳細はこちら
第1回生 短期大学入学式 (1955年4月)
1970年に66日間におよぶヨーロッパ演奏旅行を行った
1974年4月1日、井口基成は勇退して名誉学長となり、三善晃学部長が学長事務取扱となって、その約半年後に学長に就任。1974年には、桐朋学園オーケストラは国連記念式典への参加という栄誉を与った。1979年頃から、全国各地にさらに「子供のための音楽教室」が開設されるようになり、世界中から注目される音楽教育機関に成長する。
1971年~1980年度 詳細はこちら
国連デー・コンサート(1974年10月)
富山市からの誘致を受けて、1995年9月にオーケストラ専門教育を目的とした「桐朋オーケストラ・アカデミー」が開校し、1999年4月、我が国初の芸術系の独立大学院として「桐朋学園大学院大学」が開学しました。
2002年、桐朋学園音楽部門創立50周年記念を迎え、記念誌の発行や演奏会を開催しました。
富山キャンパス外観