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1952~1954年度 桐朋女子高等学校音楽科の開設

年度 音楽部門の歴史
1952年
(昭和27年)度
◇桐朋女子高等学校音楽科入学式 (4月8日)
1953年
(昭和28年)度
◇音楽科木造校舎、教室54坪を増築
◇初めての室内楽演奏旅行<京都> (9月4日~5日)
◇「子供のための音楽教室」設置の件、理事会で承認 (9月29日)
◇「遠山音楽教室」命名式 (10月23日)
◇子供のための音楽教室5周年記念演奏会<日本青年館> (10月30日)
◇子供のための音楽教室、東京家政学院より桐朋学園(仙川)へ移転 (11月)
1954年
(昭和29年)度
◇子供のための音楽教室幼稚科・目白教室開設
◇NHK子供大会<日本青年館>に出演 (5月5日)
◇桐朋学園短期大学設置の件、理事会で承認 (7月8日)
◇初めてのオーケストラ演奏旅行<京都、大津> (9月3~6日)
◇オーケストラ演奏会「桐朋学園・オーケストラの夕」短期大学設置記念奨学資金募集音楽会<日本青年館> (3月26日)

1952年、桐朋女子高等学校音楽科の最初の入学式が行われた。女子生徒42名、男子生徒4名が入学し、入学式の記念写真には、木代修一校長、生江義男主事、そして音楽科教員と生徒・保護者たちが収まっている。

桐朋女子高等学校音楽科入学式 (1952年4月8日)

高等学校音楽科開設当時の校舎

 音楽科の校舎としては、山水学園時代に建てられた寄宿舎として使用されていた北道路側の一棟が充てられた。南隣の一棟は教職員寮であったが、その一角の3部屋に、地方出身の音楽科生徒たちがほぼ出身地域にしたがって割り当てられた。1956年、江戸英雄の尽力で隣地に土地を取得して寮が建設されたが、それまでは寮生にとっては教室と宿舎がひとつになった学園生活であった。新しい寮の建設後は、旧寄宿舎の風呂場や、それに隣接する電気室は格好の練習場所となった。

 高等学校音楽科の開設後も、「子供のための音楽教室」はまだ東京家政学院に置かれていたが、1953年10月、「音楽教室」も仙川に移ることになる。江戸英雄の働きかけと、遠山一行の父で同じく財界人であった遠山元一の出資により、音楽教室に使用する木造校舎が増設された。そのため、しばらくの間、そこには「遠山教室」という看板が掲げられていた。

高校音楽科開設の頃のキャンパス

 1952年11月3日、神代村が町制施行により神代町となる。翌年には仙川・経堂間にバス運行が始まる。仙川駅から桐朋学園まで、遮るものはほとんどない一面の畑地で、近くには文房具店(神代書店)が1軒ある程度であった。悪天候時は、ぬかるみの道を歩いての通学で、道に石炭殻を撒いて何とか急場をしのぐこともあった。

学園木造校舎俯瞰(1953年~1954年頃撮影)

桐朋音楽教育の拡がり

 斎藤秀雄や井口基成らの新しい音楽教育の理念とその実践は、日本各地にその共鳴者を生み出していく。斎藤は請われて各地でその音楽教育の実践を行った。桐朋女子高等学校音楽科開設は、その1年半後の1953年9月に「京都子供の音楽教室」の設立を促し、堤剛ら4人の生徒を帯同し、最初の室内楽演奏旅行が行われた。

 また、大阪にある相愛学園が「子供の音楽教室」を設立(1955年10月)する際には、斎藤、井口、柴田、吉田、入野義朗らが指導助言を行い、同学園に大学が設置されたときには、山田耕筰らとともに、彼らも教授陣にその名を連ねた。

 こうしたことが機縁となって、1954年以降、桐朋学園音楽部門のオーケストラの京都や大阪への演奏旅行が定例化することになる。そして、関西地域からたくさんの入学者を迎えるようになるとともに、桐朋の音楽教育を支援する保護者の組織「関西桐朋会」も誕生した。

 このような拡がりは、やがて広島、仙台、福岡などにも及んで、各地に音楽教室分室を設置することにつながっていく。

1954年9月 演奏旅行(大津) 看板に「天才少年少女-オーケストラと独奏-」というコピーが

ここに掲載している文章等は、2002年音楽部門創立50周年の際に発行した「50年の歩み」より抜粋したものです。

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