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桐朋学園 音楽部門 トップ > 桐朋学園音楽部門について > 1971~1980年度
年度 | 音楽部門の歴史 |
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1973年 (昭和48年)度 |
◇ディプロマ・コース新設 (4月) ◇「音楽科報」(新)第1号刊行 (5月) |
1974年 (昭和49年)度 |
◇三善晃学部長、桐朋学園大学学長事務取扱に就任。井口基成、桐朋学園大学名誉学長就任 (4月1日) ◇渡米弦楽合奏団合宿 (志賀高原・8月19日~24日) ◇三善晃、桐朋学園大学学長就任 (9月1日) ◇故斎藤秀雄教授学園葬(青山葬儀所、9月27日、9月18日逝去) ◇桐朋学園弦楽合奏団〔国連記念式典演奏〕渡米 (10月14日~11月3日) ◇桐朋学園大学研究紀要第1集刊行 (3月30日) |
1975年 (昭和50年)度 |
◇室内楽・二重奏ソナタのレッスン導入 |
1977年 (昭和52年)度 |
◇ボストン交響楽団との協演(東京文化会館大ホール) (3月17日) |
1978年 (昭和53年)度 |
◇古楽器科開設 (4月1日) ◇第1回東京芸術祭:アイザック・スターン協演演奏会(厚生年金会館) (6月8日) ◇作曲科生による第1回作品展始まり、現在に至る (6月9日) ◇故伊集院清三氏音楽葬(青山葬儀所) (10月15日) |
1979年 (昭和54年)度 |
◇子供のための音楽教室市川分室西千葉教室、大阪、北九州分室開設 (10月1日) ◇ペダゴジカル・シリーズ(LP後にCD制作)始まる |
1980年 (昭和55年)度 |
◇子供のための音楽教室京都分室、富山分室開設 (4月) ◇故入野義朗教授合同葬(青山葬儀所) (7月8日) ◇第2回工業倶楽部ファミリー・コンサートに出演(日本工業倶楽部)、現在に至る |
1974年4月1日、井口基成は勇退して名誉学長となり、三善晃学部長が学長事務取扱となって、その約半年後に学長に就任した。
桐朋学園オーケストラは、1974年10月の国連記念式典への参加という栄誉に与った。演奏曲目のひとつであるリヒャルト・シュトラウス《ドン・キホーテ》には、前年から徹底的な練習をもって臨んだ。
指揮は小澤征爾で、第37回定期演奏会のほか、国内での演奏旅行が積み重ねられた。かねてから病気療養中の斎藤秀雄は、病気をおして合宿に参加し、自ら指導を行った。また、1972年12月から1974年8月まで4回にわたって広島教室で音楽の講義を行い、その講義録は、小澤征爾、堤剛、前橋汀子、安田謙一郞、山崎伸子編『斎藤秀雄講義録』(白水社、1999年)として出版された。
9月18日、斎藤秀雄は臨終の床につき、9月27日、深い悲しみに包まれて青山葬儀所で学園葬が営まれた。創設者の死を悼む気持ちを抱いて、10月14日、オーケストラはアメリカに向けて出発した。
アメリカではまずエール大学で、桐朋で何人もの学生を指導したブローダス・アール教授とその夫人の安芸晶子が斎藤秀雄の追悼演奏会を準備し、小澤征爾指揮で演奏会が行われた。斎藤秀雄夫人はエール大学長から、斎藤秀雄の業績を記念したサンフォード賞とメダルを授与された。そして、10月24日、国連会議場でのコンサートに臨んだ。
10月25日から、ボストン、続いてワシントン(指揮:秋山和慶、会場:ケネディ・センター・コンサートホール)で演奏会が開催され、最後のニューヨーク・カーネギーホールでの演奏会では、斎藤秀雄の死を悼むとともに、急逝したダヴィッド・オイストラフを追悼するプログラムが組まれ、急遽、アイザック・スターンがオーケストラに加わるという、劇的な展開となった。
エール大学での斎藤秀雄追悼コンサートで指揮をする小澤征爾(1974年10月)
エール大学での追悼コンサートのリハーサル